kimuchiのブログ

改ざん前のみ言葉と動画で真実を訴えてまいります!

教会が一つから二つに分かれそのようにして三回に分かれると
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恵みのある家庭は教会に行きません、家庭でひれ伏して祈祷します。
    《礼節と儀式》第三章礼拝と教会生活礼節

再臨論の間違い~『 生活者の日本統治時代 』(呉 善花 著) 

  呉 善花の生活者の日本統治時代―なぜ「よき関係」のあったことを 語らない.



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■『 生活者の日本統治時代 』(呉 善花 著) 三交社 2000年 p49~


[呉 善花] 朝鮮の上流階層といえば、大地主でもあるヤンバンたちですね。
      彼らの生活ぶりはどんなものでしたか。

[安部元俊] 父の関係でヤンバン家に招かれることがたびたびありましたが、
 彼らの家は大きくて立派で、まさしく宮殿のようなものでしたね。彼らは地
 主として経済力があるばかりでなく、社会的な権力者でもありました。

 今の韓国人は「日本人に土地を奪われた」と言いますが、実質的に民衆から
 土地を収奪していたのは彼らですよ。彼ら特権階級の人たちの生活は、それ
 はけた違いに豊かなものでしたね。


[呉] すでに身分制は無くても、旧来の権力的な位置はずっと生きていたんで
   すね。

[安部] それはもう厳然と生きていました。ヤンバンが怒ると農民たちをひど
 く殴るんです。農民たちは彼らにいくら殴られても、抵抗することなく服従
 していました。私もそういう場面をたびたび見てきましたが、父はいつもそ
 れに腹を立てていました。ある時、堪忍袋の緒が切れたんでしょうね、父は
 「これはとうてい許せない」と言って警察に訴えたことがあります。


[呉] 一般の日本人はどうでしたか。日本人は朝鮮人にひどいことをした、虫
   けら扱いのような差別をしたとも言われますが、そういうことは実際に
   よくあったんでしょうか。

[安部] そう言われるんですけれども、私が朝鮮にいた頃、日本人による朝鮮
 人いじめの話は噂としてもまず聞いたことがないんです。とくに水原にいた
 頃は日本人が少ないからと珍しがられて、地域の人たちはみな親切にしてく
 れていましたしね。少なくとも水原では私の知る限り、日本人と朝鮮人が衝
 突したとか、喧嘩したとか、何かのトラブルがあったといった話は聞いたこ
 とがありません。

 ああ、そういえば水原で、小学生の私が浴衣を着て外で遊んでいた時に、朝
 鮮人の大人にドブに放り込まれたことがあります。なぜそうされたのかまっ
 たく分からないんですがね。それで日本人がいきり立って仕返しするなんて
 ことはなく、そのままになっていましたよ。朝鮮人のほうが弱い位置にある
 からって、ちょっとしたことがあってもあまり問題にしない傾向が強かった
 と思います。

 学校では「ここは朝鮮だ、我々は他人の国によそからやって来て住んでいる。
 朝鮮人と喧嘩したり朝鮮人をいじめたりは絶対にしてはいけない」と盛んに
 言われていましたし、親からも厳しくそう言われていました。
 柔道や剣道が授業科目のひとつでして、朝鮮の学校でも同じでした。父から
 はいつも、さむらいとしてのプライドを守ることを強調されていました。第
 一に「嘘をつくな」、第二に「弱い物をいじめるな」と、しつこいほど言わ
 れました。

 当時は朝鮮人の間で疱瘡という病気が流行っていました。日本人は予防接種
 を受けていましたから大丈夫でしたが、朝鮮人の農民たちの多くが疱瘡にか
 かっていました。そのほかにもいろいろな病気が流行っていて、家に帰った
 ら必ず手を洗うように言われていました。

 そういうなかで父は貧困な農民たちの治療に励んでいましたが、それでも病
 原菌をもらってしまいまして、腸チフスと赤痢にかかってしまいました。父
 が病院を辞める時には、多くの朝鮮人が家にやって来て「どうか辞めないで
 ここにいて下さい」と泣いて別れを惜しんでいました。


[呉] ソウルでは日本人によるいじめとか差別はどうでしたか。

[安部] ソウルでも水原と同じで、そんなことはまず無かったですよ。ただ私
 は中学三年の時、一度だけ朝鮮人との間に問題を起こしたことがあります。
 朝鮮人はスケートが上手でしてね、私も朝鮮人のスケート選手に習ったりし
 て、よくスケートをやりました。昌慶池の庭に池がありまして、冬には凍る
 のでたくさんの人がそこでスケートをやるんです。ある日、滑り終わって帰
 ろうと門を出たところで、20歳くらいの朝鮮人の青年に呼び止められまし
 た。すると彼は「生意気だ」とひとこというや、いきなり殴りかかってきた
 んです。それはものすごく強いパンチでしたよ。そのままガンガン顔形が
 変わるほど殴られっばなしで殴られていました。

 すぐに5・60人もの朝鮮人が集まって来て、「やれ! やれ!」とその青年を
 応援するんです。こちらは友達は2人いましたが、1対1の喧嘩には手を出
 さないのがルールですから、みんな2人の喧嘩を見ているだけです。

 父からは「どんなことがあっても人を殴ることをしてはいけない」と言われ
 ていましたので、なかなか殴り返す気が起きないんです。そこで私は相手に
 掴みかかっていって取っ組み合いになりました。相手は私に腰投げをかけて
 きましたが、私も柔道を習っていたので小外刈りをかけ返して倒したんです。

 それで私が馬乗りになり、相手の襟を取って柔道の技で首を絞めたんです。
 相手の顔がみるみる紫色に変わっていったところで、朝鮮人の応援団に止め
 られて手を離しました。

 まもなく警察官が飛んできて交番に連れて行かれました。そこで分かったん
 ですが、彼はブロのボクサーだったんです。道理でバンチが強いはずです。
 私の顔面はもうバンパンに腫れ上がっていましたからね。
 なぜ「生意気だ」と言われたのかは未だに分かりません。警察では「告訴す
 るか」聞かれましたが、父にそのことを言うとキッパリとこういわれました。
 「その程度のことで訴えるのは日本人としてとても恥ずかしいことだ、朝鮮
 人から慰謝料を取るようなことをしてはいけない」

 顔の傷は父の治療を受けて、治るまでにかなり長い時間がかかりました。喧
 嘩した相手とは交番で別れて以来、二度と会うことはありませんでした。
 中学校では特に朝鮮人との喧嘩には厳しく、やれば停学でしたから、朝鮮人
 と喧嘩することは怖いことだと思っていました。小学生の時から学校では「
 ここは朝鮮人の国だ。朝鮮人と喧嘩してはいけない」とさかんに言われてい
 ましたし。

 戦後、日本に帰ってから、朝鮮に住んでいた日本人は朝鮮人をさかんに苦し
 めたという言葉を当然のようにぶつけられましたが、自分の体験からすると、
 いったいそれはどういうことなのか、どう考えても分かりません。喧嘩とい
 うことだけではなくて、問題になるようないじめとか差別とか、一般生活者
 の間ではほとんど無かったということを、私は自分自身の実体験から自信を
 もって言うことができます。

 大人数の朝鮮人の中に少人数の日本人が生活していました。ですから私たち
 はいつも小さな気持ちでいました。実際、朝鮮人の町の中で日本人だと威張
 って身勝手な振る舞いをすることなど、とうていできることではなかったで
 すよ。

 特に田舎の人たちは連帯意識が強いですから、もし日本人が村の人たちをい
 じめたりすれば必ず集団で立ち向かって来ると、そういう生活環境でしたか
 ら、とてもそんなことはできません。


 ※ [安部元俊]氏は大正6年東京生まれ。大正9年、医師の父のソウル赴任
   で家族と一緒に3歳の時にソウルに渡る。
   父は東京帝国大学付属病院の内科医師を務めていたが、朝鮮に疫病が流
   行し医療が遅れているということで要請があり、京城帝国大学付属病院
   の内科部長として赴任。朝鮮の医師や看護婦の養成が目的だった。
   そして2年後にソウル中心から南へ50キロほどの所にある水原の京機
   道立病院副院長に赴任。阿部氏は水原の小学校に入学する。

■『 生活者の日本統治時代 』(呉 善花 著) 三交社 2000年 p66~


[呉 善花] 小中学校に朝鮮人の同級生はいましたか。


[林 健一] 日本人小学校ができたのが明治39年で朝鮮人のための普通学校は
 大正12年にできました。朝鮮人はそれまでは塾に通っていたんです。
 中学校は安東中学校でした。私のクラスには3人の朝鮮人がいました。その
 うちのひとりに李マンカップがいました。彼は戦後にソウル大学大学院学校
 長を務めた人です。現在は現役ではありませんが、名誉教授になっています。
 私は韓国へ行くたびに彼とは会うんです。


[呉] 日本人による朝鮮人差別という問題はどうでしたか。


[林] もう、まったくありませんでした。生徒同士は完全に対等で、上級生の
 朝鮮人が下級生の日本人を呼び寄せて、「お前は服装が悪い」とか説教する
 ことなんかたびたびありましたね。同じ中学の朝鮮人たちは優秀な人たちば
 かりで、自分たちは朝鮮を代表する者だという自覚に燃えていました。彼ら
 は勉強ができただけではなく柔道も上手でした。

 校内ではもちろん、朝鮮人子弟だけが通う高等普通学校もありましたが、学
 校間の日本人と韓国人の喧嘩もなかったし、そんな噂も聞いたことがありま
 せん。ただ全国的なレベルでは、光州中学校で朝鮮人と日本人の喧嘩があっ
 たという噂が、かなり大きなものとしてありました。なんでも、通学中に高
 等普通学校の朝鮮人生徒たちと広州中学校の日本人生徒たちがすれ違う時に、
 朝鮮学校の生徒たちがぶつかったとかなんとか言って喧嘩になったというこ
 とです。ソウルでも、京城中学校の日本人生徒と高等普通学校の朝鮮人生徒
 との間で、同じようなことから喧嘩になったことがあったようです。
 たまにそういう事件があって、学校では先生たちから「民族の違う者たちが、
 相手の民族にキズを与えるようなことは決してやってはいけない」と盛んに
 言われていました。


[呉] そういう子供同士の小競り合いがあった程度で、いわゆる朝鮮人差別と
 いったものは無かったということですか。


[林] 我々生活者の間では、まずそういうことはありませんでした。もともと
 日本人は古くは、朝鮮人を大変に知的で文化的な人たちだと尊敬していたん
 です。それが明治になって庶民レベルの生活を知るようになってから、底辺
 に生活するたくさんの人たちを見るようになり、彼らに対する「非衛生的だ」
 「礼儀がない」という印象から、だんだんと蔑視する日本人が出るようにな
 っていったことは事実です。それに対して、日本人は貧乏でも衛生的でした
 し、たいていの人が文字を読めました。そういうことから嫌な顔をして見る
 日本人はいたでしょうね。でも「それはひどい」といった差別の話は自分の
 まわりでもありませんでしたし、耳にしたこともありません。

 主食は配給制で、日本人は白米、中国人と朝鮮人は麦やトウモロコシでした。
 これは差別だという苦情がありましたが、それではと白米を配給しても苦情
 がくるんです。たぶん食習慣から、当時の貧しい中国人や朝鮮人は日常食と
 しては白米よりも麦の方を好む傾向があったんじゃないでしょうか。


 ※ [林 健一]氏は大正10年、朝鮮北端の町・新義州の鴨緑江の対岸の安東
 生まれ。新義州で小中学生を過ごした後、単身内地に渡って鹿児島農林専門
 学校を卒業。卒業後は終戦までの5年間、満州の大連で農業関連の仕事に従
 事した。

■『 生活者の日本統治時代 』(呉 善花 著) 三交社 2000年 p109~


[呉 善花] ご近所ではどうでしたか。


[吉田 多江] 近所の子供たちともよく遊びました。私は朝鮮の女の子たちの
 長く束ねた髪の毛が羨ましくて、私が触りたいというとよく触らせてくれま
 した。彼女たちは私の髪も綺麗に束ねてくれたりして、何の区別もなく付き
 合っていました。それに、朝鮮人はみなとても礼儀正しかったことをよく覚
 えています。

 家はソウル駅から歩いて五分のところにありましたが、ソウルは心の故郷で
 す。今でも東京の地理はいくら言われてもよく分かりませんが、ソウルの地
 理は今でもほとんど覚えています。


[呉] 朝鮮人とのぶつかり合いなどはありましたか。


[吉田] 仲の良かった思い出がいっぱいで、朝鮮人と日本人の間でいじめたり
 いじめられたりといったことは、ほんとうに見たことも聞いたこともありま
 せん。戦後、日本に戻って来て「日本人は朝鮮人をいじめた」と言われるよ
 うになったんですが、なぜそう言われるのかと言われるたびにおかしな気分
 になってしまいます。もしかしたら自分はそれに気付くことなく、世間知ら
 ずのままソウルで青春を送ってきたのだろうか、そんなふうにも思ってみる
 のですが、いったいどこでそんな悪いことが起きていたのか、今なおどうし
 ても納得がいきません。


[呉] ご両親にあっても朝鮮人とは仲良く暮らしておられましたか。


[吉田] 父は竜山中学校の漢文の教師をやっていましたが、他人のためによく
 働く人でした。教え子のひとり沈鉱大という人が中学校を出て日本の法政大
 学に入る時には、父が経済的な援助をしてあげました。彼はそれに恩義を感
 じてくれていて、何かの折りにいろいろな物を家に持って来てくれていまし
 た。彼は戦後も東京の銀座で貿易商をやっていましたが、ずっと変わりなく
 父には何くれとなくいろいろな物を送ってくれていました。彼は父を人生の
 恩師だと言っていました。

 ソウルにいた頃にはたくさんの朝鮮人が家に出入りしていましたが、なかに
 子沢山の小作人がいて、祖父がよくお金を貸してあげていました。その祖父
 が病気になった時など、その人は自分の血の献血を申し出て、早く良くなっ
 てほしいといってくれました。彼はまた祖父のその恩に報いたいと言って、
 しきりに穀物や果物を持って来てくれ、牛肉の最も良いところを持って来て
 くれたりしてくれていました。

 家のお手伝いさんには日本人も韓国人もいましたが、先輩の朝鮮人のお手伝
 いさんをオモニと呼んでいました。年齢は40代・50代で住み込みでした。
 オモニの息子は月1回服を持ってくるなど、自分の母親にはとても親孝行を
 していました。そのオモニがある日、二階の部屋で寝ていて下へ落ちたこと
 がありました。その時に父が丁寧に治療してあげたので、いつも「ありがた
 い」と口癖のように言っていました。

 そのオモニは買い物がとても上手で、私が焼き芋を買えば1個しか買えない
 のに、オモニはまけさせてたくさん買ってきてくれるんです。また、ほかの
 家で働いているオモニの娘さんがよく寝泊りに来ていました。オモニたち朝
 鮮人のお手伝いさんは、日本のお手伝いさんとも仲良くやっていました。


 [呉] そういう生活体験がおありになって、日本人は朝鮮人をずっと差別し
 てきたといわれることに対して、どんなふうにお考えになりますか。


 [吉田] 私の友人が二年前に韓国へ旅行に行った時に、バスガイドの若い女
 性が、日帝時代の日本人がいかにひどいことをしたかと、一所懸命に日本人
 旅行者に向けて話すので気分を害したと聞きましたが、実体験の無い彼女に
 何が分かるというのでしょうか。

 戦後の日本や韓国で教えられているように、戦前の日本人が本当に朝鮮人に
 ひどいことをし続けてきたのなら、日本人はその間、さらには日本が戦争に
 負けた途端に、それなりの報復を受けているはずです。当時の朝鮮は貧富の
 差が大きく、豊かでない人たちがたくさんいました。

 日本人はそれなりに豊かでしたから、もし日本人が朝鮮の人たちにひどいこ
 とをしていたとすれば、日本の敗戦と同時に日本人の家に押し入ったり、物
 を盗ったりするようなことがけっこうあってもおかしくなかったはずで、や
 ろうと思えばできたわけです。敗戦時の無政府状態の時にやろうと思えばい
 つでもできたし、やられれば日本人はそれにまったく抵抗できなかったはず
 です。

 ところが、朝鮮はとても治安が良くて、日本人を襲う泥棒や強盗の話など聞
 いたこともありません。戦後もずっと治安の良さが続いていました。朝鮮の
 人たちは戦争が終わっても相変わらずの信頼関係を続けてくれていましたか
 ら、横暴な振る舞いなど一切ありませんでした。家財道具を盗られるなんて
 ことはなく、こちらから知り合いの人たちにあげましたし、彼らはみな喜ん
 で感謝の礼を表してくれました。こんな素晴らしいことってあるでしょうか。
 世界に誇れることだと思います。


 ※ [吉田 多江]さんの父は鳥取県青谷の神社の神職の出。母は島根県の庄屋
   の出。共に進取の気性が強く、新天地での生活に希望を燃やして母方の
   祖父母のいる朝鮮へ渡った。両親とも朝鮮に骨を埋めるつもりでいたと
   いう。母は奈良女高師(現在の奈良女子大)を出て、島根県の倉吉女学校
   に勤務、父も倉吉女学校に勤務していた。ソウルへ渡って父は竜山中学
   校の教師に、母は第二高等女学校の教師となる。

■『 生活者の日本統治時代 』(呉 善花 著) 三交社 2000年 p142~


[呉 善花] 子供時代に朝鮮人の友だちはいましたか。


[山木 利男] 子供の頃には水遊びをよくしました。川で服を脱いで遊んでい
 ると、朝鮮人の子供たちから、朝鮮人は服を脱いで遊ぶようなことはしない
 と言われました。たしかにそうなんですね。裸になって遊ぶ姿を見たことが
 ありません。

 李萬甲さんとはよく遊んでいました。よく私の家に来て一緒に遊ぼうと誘わ
 れたのですが、彼は運動が万能でアイスホッケーやバスケットボールがとて
 も上手でした。

 彼の家と私の家は歩いて5分の距離で、彼のお父さんは弁護士で日本人町の
 端の方に住んでいました。新義州には弁護士が4人しかいなかったんです。
 お父さんは厳しい人で、あるとき彼と一緒に遊んでいると、彼を呼びに来て
 「遊んでばかりいないで勉強しなさい」と厳しく言われたのをよく覚えてい
 ます。

 終戦になると、北では李萬甲さんをはじめ、日本人と親しくしていた人たち
 はかなり強い非難を受けることになり、それでいろいろと大変な目にあった
 のです。後に日本で同窓会を開いた時に彼から、「兄弟のようにしていたの
 になぜ助けてくれなかったのか」と文句を言われてしまいました。李さんは
 朝鮮北部では「あいつは親日派だ」といっ密告が盛んに行なわれたといいま
 す。日本の学校にいっていたのかどうか、日本人と親睦があったかどうか、
 日本に行ったことがあるのかどうか、などが大きな問題になったということ
 です。

 李さんを助けられなくて申し訳なかったのですが、北にいた終戦時の日本人
 は、いかにして南に逃げるかで精一杯でした。また日本人とかかわりのあっ
 た朝鮮人たちも同じように南に逃げることに必死だったんです。

 李さんの場合は、お父さんが洋服を着ないで常に韓服を着ていたこと、国粋
 主義者として知られていたということで、彼の家族はなんとか助かったのだ
 そうです。しかし、彼の叔父さんは病院の院長をやっていまして、患者がた
 くさん入院していたこともあって逃げることができず、親日家ということで
 殺されてしまったそうです。


[呉] 韓国で採れたお米が宮中で神前に供えられたと聞きましたが、それはど
 ういうことだったんですか。


[山木] 11月23日の新嘗祭の時に、宮中では日本各地で収穫された新穀が
 神様に捧げられます。その中には韓国で収穫された米もありました。陸羽1
 32号という山形で採れた米は寿司米として東京や大阪へ輸出されました。
 朝鮮は土地が花崗岩だから米がおいしいんです。それで宮内省へ納入したん
 です。


[呉] 総督府では朝鮮農業の近代化に大きな力を入れられたそうですね。


[山木] これは総督府とは直接関係ありませんが、農会という農業信用組合、
 朝鮮の農業団体組織がありまして、ここでは総督府を辞めた人などが指導者
 となって、土地改良や食品管理などに関する農業技術を教えていました。

 朝鮮では道ごとに金融組合を作って殖産銀行が親銀行になって金を貸し出し
 ていました。金融組合では、お金のほかに肥料・種などの物も提供しました。
 後に産業組合になるんですが、あまり活発な活動はしていませんでした。

 明治43年までは朝鮮の土地調査がありませんでしたが、大正7年までに総
 督府が土地調査を完了しました。そのため所有関係がはっきりし、十分な指
 導体制を作ることができるようになったんです。それまでは全くの混乱状態
 でした。
 朝鮮の農業は伝統的な天水田がほとんどでしたが、灌漑工事を施して水利の
 コントロールができるようにもしました。また干拓や山地の開拓を推し進め
 て農地を拡大していきました。

 組合が土地を確保して水田を造って、日本の農夫を呼んで20万ヘクタール
 ほど、朝鮮の農地は300万ヘクタール、水田150万ヘクタールを造りま
 した。日本の農地は海を埋め立てたり河川敷を開拓したものが多く、鴨緑江
 の下流でも河川開拓を行ない、これを不二農場といいました。また、洪水を
 防止するために鴨緑江に発電を兼ねたダムを造り、貯水池を造ったのですが、
 完成したのは水量だけでした。

 また、それまで公有だった山地の多くを組合管理などの私有にしました。山
 は公有だ、誰のものでもないということで、みんな勝手にどこにでも墓地を
 作っていましたし、山の木も勝手に伐り出してオンドル用の燃料に使うとい
 う状態でした。そのため山という山がハゲ山となってしまっていたんです。

 鉄道を作る時に苦労したのは、枕木にするための木が無いことでした。その
 ため日本の北海道や東北地方から材木を持って来ていました。しかし道路が
 整備されていないために、運搬には大変な苦労が伴いました。また、朝鮮に
 は川砂利が無いので山を掘って山砂利を使うしかなく、これも大変な作業で
 したが、軍隊がやってくれたのでなんとか早く採ることができました。


[呉] ご自身は具体的にどのようなお仕事をされていましたか。


[山木] 農商局農業資料科穀物生産高調査係で、米の生産高調査などが主な仕
 事でした。部署には朝鮮人が多くいました。
 戦争中であっても朝鮮は攻撃を受けませんでしたから、毎日の生活では内地
 に比べて緊張することはあまりありませんでした。それでも、昭和20年の
 8月に入って、日本の特攻隊の飛行機が落ちたり、米軍のグラマン戦闘機が
 南朝鮮にも飛んできたりして緊張しましたが、ともかく自分としては自分の
 部署で生産高調査などの仕事をするしかありませんでした。その当時は全羅
 道に出張していまして、農地に穀物が実る頃となれば、農地の一部をサンプ
 ル調査して全体の出来高を計算するんです。

 戦争中は食料が配給制となり、全般的に食料が不足していましたので、非常
 食品として木の皮・山菜・どんぐり・松の木の皮などから、食用にできる物
 を懸命になって調査しました。
 ( 後略 )


※ [山木利男]氏は1921年平安北道義州生まれ。3歳の時に新義州へ移り、
 小学校・中学校の卒業まで過ごした。中学校卒業後は水原高等農林学校(現在
 のソウル大学農林学部)へ入学。当時は唯一の農林専門学校だった。山木さん
 の入学時には3分の1が韓国人で、3分の2が日本人だった。

 水原農林専門学校を卒業して総督府に入るが、やがて徴兵されて幹部候補生
 となる。軍隊はソウルの漢江のほとりにあった第30部隊、自動車部隊だっ
 た。幹部候補生だった幹部候補生の教育は3ヶ月間だったが、ドラム缶が落
 ちてきてケガをし、途中で軍隊を出て再び総督府へ戻った。

■『 生活者の日本統治時代 』(呉 善花 著) 三交社 2000年 p159~


[呉 善花] 殖産銀行に勤められたわけですが、出身学校はどちらですか。


[朴 承復] 当時の韓国人は普通学校卒業後、師範学校、つまり師範教習所へ
 入るのが最も大きな夢でした。

 ここを出れば普通学校の先生としての席が確保されますし、最も安定した職
 業だったからです。普通学校は日本人の先生と韓国人の先生が半々でした。
 朝鮮人の就職は難しかったですが、師範教習所にさえ入れば学費も補償され
 ます。

 師範教習所はソウルと平壌の2か所にしかなく、全校で1・2の成績の人し
 か入れませんでした。私はここを受けたのですが落ちてしまい、O興公立商
 業学校に入りました。

 ( 中略 )

 銀行の就職では無条件に成績順で採ってくれるんです。私もまあ成績が良い
 方だったので、なんとか殖産銀行に入ることができました。当時の朝鮮人に
 とっては最も人気の高い銀行は殖産銀行でした。次に朝鮮銀行、次に商業銀
 行や朝興銀行でした。

 なぜ殖産銀行の人気が高かったのかといえば、まず第一に給料の良さです。
 朝鮮に来ていた日本人は、日本にいる日本人より給料が多かったんです。基
 本給に外地手当ての加給が60パーセント加えられました。役所や一般の会
 社では朝鮮人には外地手当ての加給は付きませんが、殖産銀行では日本人と
 同じに朝鮮人にも60パーセントの加給が加えられるんです。それに対して
 朝鮮銀行では30パーセントが追加されるだけでした。

 また殖産銀行員となれば超エリートです。殖産銀行のバッチを付けていれば
 劇場に入る時、汽車やバスに乗る時、風呂に入る時以外は、全く現金がいら
 なかったんです。食堂でツケで食事をすれば給料日に集金に来ました。

 当時の韓国はそれくらいの信用社会でした。社会全体が信用社会といってい
 いほどでした。今も当時のように信用社会だったらいいのになあと思います。
 独身の私には見合い話が殺到していました。朝鮮人としては最高の職場でし
 た。


[呉] 学校で朝鮮人差別のようなことはありましたか。


[朴] 学校では生徒たちからも先生たちからも、差別されたことはありません。
 私は日本語も韓国語も同じように話せます。商業学校では日本人は朝鮮語を
 学んでいたので、今でも日本人の同期生たちと会うと、彼らは韓国語で話し
 たがります。あるやつなんかは電話をかけてくる時も韓国語でかけてきます
 よ。今なおそれほど親しく付き合っている日本人の同期生が何人もいる、と
 いうことです。

 商業学校の恩師2人はとても尊敬できる方でした。いずれの方についても、
 病気になられて危ないという時に、私はお見舞いに日本に飛びました。
 ひとりは松尾先生で国語の先生でした。人の生き方や人間の道理などについ
 て、よく教えてくださいました。この先生は、韓国人・日本人にかかわりな
 く尊敬されていました。戦後しばらく経ってから、私が韓国へ招待したいと
 いいましたら、松尾先生は「朝鮮で罪をたくさん犯したので行けない」と言
 われました。これは国家レベルの感情の話です。先生個人には何の罪もあり
 ません。

 松尾先生が入院したと聞いて見舞いのために渡日しましたが、その時にNH
 Kが成田までやって来てインタビューを受けたことがあります。

 もうひとりは横尾先生です。この先生は日本人生徒たちからは嫌われていま
 した。めちゃめちゃに厳しくて、過ちを犯せば決して許さない方でした。し
 かし、私はなぜか特別に可愛がってもらいました。商業美術の先生で、授業
 時間以外にも個人的によく教えて下さいました。いろいろな相談にものって
 いただいた大恩師です。

 横尾先生が亡くなられる直前に日本へ行きました。あの太っていた方が割り
 箸のように痩せて寝込んでいました。先生は言葉をうまく発することもでき
 ず、お嫁さんが横で通訳をしてくださいました。お嫁さんの通訳によれば、
 先生は「会えてとても嬉しい。健康な姿を見せたかったのに悪い」とおっし
 ゃいました。その時どれだけ涙が出たか、いつまでも止まることがありませ
 んでした。

 戦後韓国の大統領もみな、来日した折りに昔の日本人の恩師を訪れています
 ね。

 ( 中略 )


 [呉] 当時の日本人には全般的にどんな印象をおもちですか。


 [朴] 悪い日本人もいたかもしれませんが、私の場合は運良くそんな人たち
 とはいっさい縁がありませんでした。日本人が特に好きだとか嫌いだとかで
 はなく、私のまわりにいた日本人は本当にいい人たちが多かったということ
 です。

 政治的な問題は別にして、私は当時の日本人との個人関係がどれだけ大事な
 ものとしてあったかを思うんです。妻の実家はO興ではかなりの金持ちの家
 でした。家をたくさん持っていましたので、日本人に貸していました。当時
 は朝鮮人より日本人の方に高く貸せるからでした。多くの日本人は、そんな
 ふうに割高を承知で朝鮮人からちゃんと家を借りて住まっていたんです。日
 本人が勝手に韓国人の家を奪い取るなど、そんなことは無かったんです。

 当時の日本人は本当に質素でした。銀行の食堂では日本式の食事をして、下
 宿先では韓国式の食事をしていました。私自身は当時の日本人に対して悪い
 印象は全くもっていませんでした。

 大東亜戦争が起きた1941年から社会条件が悪くなりました。日本人が韓
 国人に対してひどいことをしたといえば、合併した初期に若干、末期に少し
 だと思います。しかしそれは政治上のことであって、一般の人々に対しては
 一貫して悪い印象をもっていません。


 [呉] 日本人と韓国人が仲良くしていくにはどんなことが大切でしょうか。


 [朴] 日韓親善の会合など、日本人と韓国人が集まったところでよく講演を
 することがあります。そのたびに私は「日韓仲良くしましょう」などとは決
 して言いません。それをわざわざ言うことは、恨みがあるということなんで
 すよ。そんな形式的で薄っぺらな姿勢からは、全く嘘っぽい話しか出てきよ
 うがありません。私はいつも過去の政治的ないきさつや現在の政治的な判断
 抜きの、普通の一般的な話をしています。それが本当の親善になるんだと信
 じています。


    ※ [朴 承復]氏は、センピョ醤油会社会長で78歳。日本統治時代には殖産銀
 行に勤務。
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