kimuchiのブログ

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    《礼節と儀式》第三章礼拝と教会生活礼節

日本は一貫して神側の国家だった(NO,3)


上海と満州のユダヤ難民 ~ユダヤ難民を保護した日本~



inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb100.htm




----(一部抜粋)-------



 ■■第1章:上海のユダヤ難民を保護した日本政府



●19世紀末、上海には、「アヘン戦争」(1840年)が大きなきっかけとなって、ユダヤ・コミュニティーが結成されていた。


上海におけるユダヤ人口は、中東出身のスファラディ系ユダヤ人700人、欧米系のアシュケナジー系ユダヤ人4000人ほどであったが、「アヘン戦争」以来、上海港を根拠地として発展した英・米・仏国籍のスファラディ系ユダヤ人が、あらゆる点で支配的勢力を占めていた。



●直木賞受賞作家の西木正明氏が書いた、ノンフィクション小説『ルーズベルトの刺客』(新潮社)には、上海のユダヤ人が大勢登場するが、サッスーンについて次のように紹介されている。


「上海屈指の豪商サッスーン一族は、18世紀初頭イラクのバグダッドに出現したスファラディ系ユダヤ人である。当時の大英帝国の東方進出に協力して、まずインドのボンベイに拠点をかまえた。やがて東インド会社が支那にアヘンの密輸を開始すると、その取引に荷担して莫大な富を蓄積した。


19世紀半ばアヘン戦争に破れた清朝が上海に租界の設置を認めると、時を移さず上海に進出し、アヘンを含む物資の売買を開始した。そして、わずか1世紀足らずの間に、金融、不動産、交通、食品、重機械製造などを傘下に擁する、一大コンツェルンに成長した。


その中には、金融業として『サッスーン・バンキングコーポレーション』『ファーイースタン・インベストメント・カンパニー』『ハミルトン・トラスト』、不動産では『上海プロパティーズ』『イースタン・エステート・ランド』『キャセイ・ランド』、重機械製造部門として『シャンハイ・ドックヤード』『中国公共汽車公司』『中国鋼車製造公司』、さらに食品関係では『上海碑酒公司』というビール会社などが含まれている。


支那四大家族のむこうをはって、ジャーディン・マセソン、バターフィルド・スワイヤ、カドーリなどとともに『上海ユダヤ四大財閥』と呼ばれる理由はここにある。


当主のビクター・サッスーンは、ようやく五十路に手がとどいたばかりの、独身の伊達男で、彼の顔写真が新聞に登場しない日はないと言ってよかった。」


 『ルーズベルトの刺客』
 西木正明著(新潮社


●上海にドイツ・オーストリア系ユダヤ人が流入したのは、ナチスがオーストリアを合併した1938年秋、イタリア商船コンテ・ビオレ号から上海に吐き出されたのが最初である。


ドイツの軍靴がチェコ、ポーランドと進むにつれて、数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるを得ない状態になった。しかし、彼らの目指すアメリカ、中南米、パレスチナなどは、入国査証の発給を非常に制限し、ほとんどシャットアウトの政策であった。英統治領パレスチナなどは、海岸に着いたユダヤ難民船に、陸上から英軍が機関銃の一斉射撃を加えるという非人道的行為まであった。



●そうした中で、入国ビザなしに上陸できたのは世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口(ホンキュー)地区だけだった。


海軍大佐の犬塚惟重(いぬづか これしげ)は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。


 日本海軍が警備していた虹口(ホンキュー)地区(通称「日本租界」)は、
 「バンド」と言われるビルの立ち並ぶ上海の中心地区からガーデン・ブリッジを
渡って北東へ行った場所にあった。日本の本願寺や商社・旅館、商店などが
軒を並べた租界の中でもどちらかというと、庶民的雰囲気の漂う下町
だった。海軍大佐の犬塚惟重は、日本人学校校舎をユダヤ難民
の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。


 ●日本政府の有田外相は、ハルビンのユダヤ人指導者アブラハム・カウフマン博士を東京に呼び、「日本政府は今後ともユダヤ人を差別しない。他の外国人と同じに自由だ」と明言した。



●1939年夏までに、約2万人のユダヤ難民が上海の「日本租界」にあふれるに至った。


(※ ちなみに、上海のスファラディ系ユダヤ人たちの中には、金のない貧乏なアシュケナジー系ユダヤ難民の受け入れを嫌がる者が多くいたという)。


 ※ 上海のユダヤ人社会に、ドイツ・オーストリア系ユダヤ人が流入
したのは、ナチスがオーストリアを合併した1938年秋、イタリア商船
コンテ・ビオレ号から上海に吐き出されたのが最初である。上海へは
世界で唯一「入国ビザ」の必要がなかったので、その後、欧州から
 ユダヤ人が続々と流れ込んだ。1939年夏までに、約2万人の
 ユダヤ難民が上海の「日本租界」にあふれるに至った。



●「世界ユダヤ人会議」のユダヤ問題研究所副所長を務め、リトアニアと日本でユダヤ難民の救出に尽力したゾラフ・バルハフティクは、著書『日本に来たユダヤ難民』(原書房)の中で、次のように述べている


 


「1941年時点で、上海のユダヤ人社会はよく組織されていた。スファラディ系社会とアシュケナジー系社会があった。前者は、19世紀にバグダッドから移住してきたユダヤ人たちで、なかにはイギリス国籍を取得している人すらあった。代表格が、いろいろな事業を経営するサッスーン家だった。そのほかハードン家やアブラハムズ家も有名で、助けが必要なイラク出身のユダヤ人移民に、支援の手を差し伸べていた。


サッスーン家の家長ビクター・サッスーン(ユダヤ人)は、上海の大立者であり、極東で一、二を競う大富豪であった。経済、政治力の影響力は相当なものであったようだ。ビクター・サッスーンは、家の伝統に従って同胞のために尽くした。しかし、上海の中国住民に対する貢献はもっと大きかった。売春婦の収容施設に多額の金を使ったし、市街電車の路線延長も彼の功績である。 〈中略〉


革命やポグロムが発生するたびに、ユダヤ人が満州へ流出し、そこから国際都市上海へ向かった。ロシア系ユダヤ難民は上海に根をおろし、貿易商となった。 〈中略〉


当時ドイツ系ユダヤ人社会もあった。かなり大きく、その数約1万5000人。上海へは入国ビザの必要がないので、ユダヤ人が続々と流れてきた。上海は1939年の中頃までユダヤ人を無制限に受け入れた。しかしその後は、居留が厳しく制限されるようになった。 〈中略〉



●当時、上海には多種多様のユダヤ人組織が存在し、様々な活動を展開していたが、参考までに、代表的なユダヤ人組織(+人物)を幾つか挙げておきたい。



◆「上海ユダヤ人協会」 E・ニッシム会長


英国籍のスファラディ系ユダヤ人。共同租界の北京路に「大商事会社」を経営。
 「上海ユダヤ人協会」の会員は約800人で、ほぼ全員がスファラディ系ユダヤ人



■■第2章:アジア地区ゲシュタポ司令官 ヨゼフ・マイジンガーの恐怖



●ナチス・ドイツは、上海のユダヤ難民に対する日本政府の「寛容な政策」を不愉快に思っていた。


そのため、彼らは上海のユダヤ難民の取り扱いについて、日本政府に圧力を火けていた。



●1942年7月、ナチス親衛隊(SS)長官ハインリッヒ・ヒムラーの命令で、東京のアジア地区ゲシュタポ司令官ヨゼフ・マイジンガーが、上海に出張し、日本に対して次のような3つの提案を示している。



 <上海のユダヤ人処理の方法>


【1】 黄浦江に廃船が数隻ある。それにユダヤ人を乗せ、
     東シナ海に引きだし、放置し、全員餓死したところで日本海軍が撃沈する。


【2】 郊外の岩塩鉱山で使役し、疲労死させる。


【3】 お勧めは、揚子江河口に収容所を作り、
     全員を放り込み、種々の生体医学実験に使う。


 


●この反ユダヤ的な提案は、陸軍大佐の安江仙弘経由で東京の松岡洋右に伝えられたが、この提案は実現しなかった。





安江仙弘(やすえ のりひろ)


 陸軍最大の「ユダヤ問題専門家」。
1938年、大連特務機関長に就任すると、 大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、
ユダヤ人たちから絶大な信頼と感謝を受けた。


 
●歴史研究家のハインツ・E・マウルは、戦時中の日本の対ユダヤ人政策について次のように述べている。


「当時2600人を数えた在日ドイツ人の中には116人のユダヤ人がいた。


日本人はユダヤ系の学者、芸術家、教育者に高い敬意を払った。


その中には、音楽家で教育者のレオニード・クロイツァー、ピアニストのレオ・シロタ、指揮者のヨゼフ・ローゼンシュトックとクラウス・プリングスハイム、哲学者のカール・レヴィット、経済学者のクルト・ジンガー、物理学者のルイス・フーゴー・フランクなどがいる。


日本政府は、ドイツ大使館の激しい抗議にもかかわらず、これらのユダヤ人をドイツ人同様に遇した。


1941年末、ドイツ大使館は日本政府に対して、外国に居住する全てのユダヤ人は無国籍とされ、今後いかなる保護も与えられないと通告した。そして在日ユダヤ人を解職するよう要求したが、日本の外務省は無視した。


かくして少数ながら戦争終了まで日本で安全に暮らしたユダヤ人がいたのである。」



レオ・シロタ


 ユダヤ人ピアニストのレオ・シロタは
1929年に来日してから15年間日本に留まり、
 演奏家ならびに教育者として活動を続けた。


 
●『日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ』の著者である山本尚志氏は、本の中で次のように述べている。


「ほとんど所持金もなく行き先のあてもなく来日したユダヤ難民に、日本の人々は温かく接した。


ユダヤの子供に食料を贈った日本人もいた。物資の入手には配給券が必要だったが、商店に配給券を持たないで難民が現れると、店員は自分の配給券を犠牲にして物資を売った。官憲すらユダヤ難民に便宜をはかった。 〈中略〉


日本人はユダヤ難民を好意的に扱ったのである。」



 「1930年代に、ドイツでは急速にユダヤ系音楽家が排除されていった。圧迫されたユダヤ系の音楽家にとって、希望の地のひとつが極東の日本だった。 〈中略〉


ナチス・ドイツ政府は、日本で活躍するユダヤ系音楽家に不信の目を向けた。 〈中略〉 在日ドイツ大使館はひそかにシロタを含むユダヤ系音楽家のリストを作成して、日本からユダヤ系音楽家を排除、代わりにドイツ人音楽家を就職させる陰謀を繰り返した。 〈中略〉


しかし日本側は、このようなナチスの圧力を事実上無視した。 〈中略〉


第二次世界大戦が始まっても、東京でユダヤ系音楽家がソリストや指揮者、音楽学校の教授として活躍する状況は変わらなかった。日本ではユダヤ系音楽家の作品も演奏されていたのであり、これはドイツやドイツ占領下の諸国では許されないことだった。」



 「レオ・シロタは、日本人のユダヤ人問題に対する立場を次のように説明していた。


『日本人は世界事情に詳しく、ユダヤ人問題にも大きな関心を寄せているため日本在住のユダヤ人に対して寛容で、差別することも、自由を奪ったりすることも全くありません。
その良い例として、このような事実があります。日本の大学には多くの外国人教授がいますが、その中でもドイツからのユダヤ人が多いことです。ヒトラー政権時代にドイツで教授職を剥奪されたユダヤ人に対し、日本政府は彼らの契約期間を延長しました。最近では東京音楽学校の学長がさらに2人のユダヤ人教授を雇用しました』


シロタは日本のユダヤ人政策を無知の産物でなく、世界事情の理解の結果と考えていたのである。 〈中略〉


シロタの観察によれば、日本でユダヤ人たちは特定の宗教を信じて共通の文化的背景をもってはいるけれども、とくに差別されることも社会集団を形成することもない、普通の外国人として生活していた。当時の日本におけるユダヤ人問題を考える際に、シロタの言葉は、知的で日本社会によく溶け込んだ同時代のユダヤ人の証言として重視されていい。


日本では、ユダヤ人は自分がユダヤ人であることをとりたてて意識しないでも生きていくことができたのだった。」



●ところで、大戦中、上海で過ごしたユダヤ難民たちは、戦後、ナチス・ドイツによる虐殺と、それを看過したキリスト教ヨーロッパ社会の実態を知り、ナチス・ドイツと軍事同盟下にあった日本が、ユダヤ人の保護政策をとってくれたことを感謝している。


ユダヤ難民だったヒルダ・ラバウという女性は1991年に、日本の占領者がユダヤ人のために安全な地を確保してくれた、と深い感謝の気持ちを表わす詩を作り、「ヨーロッパで皆殺しになった人々を思えば、上海は楽園でした」と語っている。


また、天津のユダヤ人も戦後の1946年9月、「世界ユダヤ人会議」に対し、「自分たちは日本の占領下で迫害を受けることもなく、日本側はユダヤ人、特にヨーロッパからの難民には友好的でした」と報告している。


(※ 「世界ユダヤ人会議」の調査では、終戦当時、中国全体のユダヤ人人口は2万5600人で、上海の他に、ハルビン、天津、青島、大連、奉天、北京、漢口にユダヤ人が存在していたという)。



●ちなみに、戦時下を上海で過ごしたユダヤ人の中で、その後最も数奇で劇的な運命を辿った男がいる。


その男の名はマイケル・ブルメンソール。


ドイツで生まれた彼は幼少期にナチに追われ、家族とともに船に乗って上海まで逃げ、日本租界で8年過ごした。


戦後、アメリカに渡ったブルメンソールは、勉学に励み、プリンストン大学で経済学博士号を取得した後、ケネディ、ジョンソン両政権の通商副代表となった。そしてカーター大統領の下、民主党政権が成立すると、遂に財務長官まで昇り詰めたのである。(皮肉なことに、彼は日本では、為替相場に口先介入し初めて円高を誘導し、日本経済を苦しめた財務長官として知られている……)




■■第3章:満州のユダヤ人と「フグ(河豚)計画」の謎



●1930年代、ドイツで迫害を受けたユダヤ人達が、シベリアを経由して満州へ洪水のごとく流れてきた。日本政府は、アメリカからの工作機械やその他の輸入を全く受けられないため、日本の満州経営は大きな壁にぶつかっていた。そのために、欧米のユダヤ財閥資本と経営技術を必要としていた。


そこで、ユダヤ資本との対立関係を回復する為に、この難民ユダヤ人達を保護し、満州にユダヤ人国家を作る計画があった。この計画は「フグ(河豚)計画」と呼ばれた。



 極東アジア地域へのユダヤ人の亡命(~1945年)


 1930年代、ドイツで迫害を受けたユダヤ人達が、シベリアを経由して満州へ洪水のごとく流れてきた



 満州国の国旗である「五色旗」は黄、紅、青、白、黒で日・満・漢・朝・蒙の五族協和を象徴している。


 一方イスラエルの旗は、1891年にシオニズム運動の運動旗としてユダヤ人ダビデ・ウルフゾーン(リトアニア出身)が考案したものである。



 ●新興日産コンツェルンを率いていた鮎川義介は、1934年に、外務省より『ドイツ系ユダヤ人5万人の満州移住計画について』という論文を発表した。彼は、ドイツ系ユダヤ人5万人を満州に受け入れ、最終的には100万人を移住させ、満州にユダヤ人国家を作ることで、アメリカの歓心を買い、対ソ連への防波堤にしようと考えていたのである。


1936年、鮎川義介が関東軍の後援で渡満し、「満州重工業開発株式会社」を設立したことにより、「フグ計画」は国策レベルに浮上した。



●ユダヤ人との間に対話の場を設けて関係を強めることを考えた日本の軍部は、1937年から1939年にかけてハルビンで3回の「極東ユダヤ人大会」を開催した。第1回の会議には、陸軍の安江仙弘大佐や、関東軍情報部長の樋口季一郎、谷口副領事などが出席し、1000人近いユダヤ人が会議を傍聴した。


直前に組織として結成された「極東ユダヤ人会議」の議長には、ユダヤ人アブラハム・カウフマン博士が選出され、極東の上席ラビにはアロン・モシェ・キセレフが選ばれた。



満州のユダヤ人の活動の中心地は黒竜江省のハルビンであった。

この町には20世紀初頭から、ロシア系ユダヤ人を主とする小さなコミュニティーが
 あったが、日露戦争の影響と1905年のポグロムの結果、多数のユダヤ人が流入したため、1908年にはその規模は8000人以上に膨れ上がった。


その後、ロシア革命とウクライナでの迫害を逃れて更に何千人もが満州に入ってきたので、ハルビンのユダヤ・コミュニティーも1920年には1万人を数え、満州国建国の頃は1万5000人にもなっていたのである。

 「ハルビン・ヘブライ協会」が設立され、ラビのアロン・モシェ・キセレフと
 アブラハム・カウフマン博士がその代表的存在だった。


 
●1937年12月26日にハルビンで開かれた第1回の「極東ユダヤ人大会」で、樋口季一郎(陸軍少将・のちに中将)は、次のように演説した。


「ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いったい、どこへ追放しようというのか。追放せんとするならば、その行き先をちゃんと明示し、あらかじめそれを準備すべきである。当然とるべき処置を怠って、追放しようとするのは刃をくわえざる、虐殺に等しい行為と、断じなければならない。私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。


ユダヤ人を追放するまえに、彼らに土地をあたえよ! 安住の地をあたえよ!


そしてまた、祖国をあたえなければならないのだ。」


この樋口季一郎の演説が終わると、凄まじい歓声が起こり、熱狂した青年が壇上に駆け上がって、樋口季一郎の前にひざまずいて号泣し始めたという。協会の幹部達も、感動の色を浮かべ、次々に握手を求めてきたという。





樋口季一郎・陸軍中将


ハルビンで開かれた
「極東ユダヤ人大会」では多数の作業計画が採択されたが、その基本理念を定めたのは樋口中将の基調演説だった。


彼は、 日本人は人種偏見を持っておらず、親ユダヤ的姿勢を強調し、日本はユダヤ人と協力し経済的接触を保つことに関心があると述べたのである。


この「極東ユダヤ人大会」には、ハルビンのほか、 奉天、大連、ハイラル、チチハル、天津、神戸など、 極東各地のユダヤ人社会から代表が出席した。


ちなみに、この「極東ユダヤ人大会」に参加した ユダヤ人はアシュケナジー系ばかりであり、スファラディ系ユダヤ人は参加していない。


 
●この「極東ユダヤ人大会」の主要な結果は、カウフマン議長名でニューヨーク、ロンドン、パリのユダヤ人組織に打電され、数多くのメディアに通報された。


しかし、メディアの反響は期待を遥かに下回るものだった。


満州のユダヤ人たちは日本と協力する用意があったのに対して、「米国ユダヤ人会議」の議長スティーブン・ワイズ博士率いるアメリカのユダヤ人は反日的であった。ワイズ博士は、日本が世界のファシズムの最も危険な中心の一つだと考えていたのである。


ハルビンの「極東ユダヤ人会議」の議長だったアブラハム・カウフマン博士は、アメリカのユダヤ人のスポークスマンに対して「日本をもっと好意的に見るように」と説得したが、ルーズベルト大統領の側近だったワイズ博士は日本を全く信用せず、ユダヤ人の満州移住構想(「フグ計画」)には賛成しなかったのである。



スティーブン・ワイズ博士


 彼はアメリカのユダヤ指導者階級の中心人物のみならず、全世界のユダヤ人の指導者ともいうべき人だった。ルーズベルト大統領のブレーンの中でも随一であり、大統領ある所には、 必ず影のように彼がついていたと評され、その政策を左右する実力を持っていた。


しかし彼は基本的に「反日主義者」で、日本との協力に消極的だった。


 
●ところで、日本軍が上海のサッスーン一族の「キャセイ・マンション」や外国人クラブを接収すると、彼らは日本に対して猛然と対抗意識を燃やし始めた。彼らは莫大な資金をつぎこんで蒋介石軍を支え、日本を中国大陸から追い出そうとしたのである。「上海キング」と呼ばれていたビクター・サッスーンは、日本の「フグ計画」に協力するのを断固拒否し続けた。(※ ビクター・サッスーンはイギリス育ちで親英主義者であり、反日的であった)。



 「サッスーン家」は、並みいるユダヤ財閥の中でも、ケタはずれの財産を保有する、屈指の財閥であった。
(サッスーン家は、英ロスチャイルド家の東アジア代理人であった)。

 彼らは当時、上海を東洋進出への最大の本拠地と考えていた。

だからこそ、莫大な資金をつぎこんで蒋介石軍を支え、 日本を中国大陸から追い出そうとしたのである。



●歴史研究家ハインツ・E・マウルは、サッスーンについて次のように述べている。


「当時、ビクター・サッスーンは日本にとって上海のユダヤ財閥の代表格であったが、日本の計画(フグ計画)には関心がなく、それどころか1939年2月のアメリカ旅行の際に反日発言を繰り返した。日本の中国大陸での冒険を終わらせるために、米英仏は日本を事実上ボイコットせよというのである。日本の陸戦隊本部は、サッスーンは自分の権力と影響力を失いたくないので日本軍を恐れているのだと見ていた。」



●明治大学教授の阪東宏氏によれば、1939年2月にアメリカを訪問したビクター・サッスーンは、ニューヨークで記者会見を行ない、次のような趣旨の発言(反日発言)をしたという。


「日本軍による対中国作戦と中国側の焦土作戦の結果、中国大陸では来年大飢饉を免れないであろう。
 『日支事変』後の日本の中国経済開発事業は、アメリカ、イギリス、フランスの財政支援なしには不可能であろう。日本の戦略物資の70%を供給しているアメリカ、イギリス、フランスが対日輸出禁止を実施すれば、日本は中国大陸から退却せざるをえない。


また、日華戦争の経費負担の増加のため、日本は中国よりも赤化する可能性がある。


なお、アメリカ、イギリス、フランスの対中国投資は、今後も安全が保証されるであろう。」


この反日発言に神経をとがらせた日本の外務省は、在ニューヨーク、上海の総領事館あてにサッスーンの言動を更に調査、報告するよう指示したが、意味のある調査結果は得られなかったという。



 ●ところで、ユダヤ人のラビ・マーヴィン・トケイヤーは、著書『The Fugu Plan(河豚計画)』の中で、「フグ(河豚)計画」について次のように語っている。


「1930年代、『フグ計画』は日本がまさに求めていたものを提供するはずだった。膨張を続ける日本の版図は、ロスチャイルドやバーナード・バルークやヤコブ・シフなどユダヤ財閥の資本と経営技術を必要としていた。


資本と技術を持った人々を、日本が中国から獲得したばかりの植民地、満州国に定住させ、一日も早くソ連という北方の脅威との緩衝地帯にしなければならなかった。……


ユダヤ人を利用する代償として、日本はユダヤ人たちに夢を約束した。ヨーロッパの荒れ狂う迫害の嵐からユダヤ人を救い、安住の地を与えようというのである。


ユダヤ人迫害は、キリスト教と密接な関係があるが、神道を国家信教とする日本には、ユダヤ人を排斥しなければならない理由はなかった。つまり、もし『フグ計画』が成功していれば、完全な両方得が成功するはずであった。」



 ●この「フグ計画」の推進には、海軍の犬塚惟重大佐の「犬塚機関」の活動があった。


「犬塚機関」は、著名ユダヤ人と広い交際を持っていた田村光三(マサチューセッツ工科大出身の東洋製缶ニューヨーク出張所勤務)の協力を得た。



●「犬塚機関」は、ナチス・ドイツによって迫害されているユダヤ人たちを必死になって助けようと動いた。そして、助けることによって日本の安泰を図ろうとしたのであった。1939年春のできごとであった。


また、「犬塚機関」は、サッスーン家が反日的姿勢を改め、日本に協力してくれることが何よりも重要だと考え、1939年夏、ビクター・サッスーンを上海の虹口地区(通称「日本租界」)に招いて会食を開いたりした。



●しかし、1940年9月27日、「日独伊三国軍事同盟」が締結されるに及んで、アメリカのユダヤ人組織から「犬塚機関」と田村光三に対して、次のような通告が送られてきたのである。


「日本当局が、上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種的偏見を持たず、公平に扱かって下さっている事実はわれわれもよく知り、今回のクレジットでその恩に報い、われわれの同胞も苦難から救われると期待していましたが、われわれには、今回のアメリカ政府首脳および一般のアメリカ人の反日感情に逆行する工作をする力はない。非常に残念だが、われわれの敵ナチスと同盟した日本を頼りにするわけにはいかなくなってしまいました。」



●この通告を受けとった東條英機(陸相)は、安江仙弘(大連特務機関長)を解任し、予備役に編入。


そして、この年(1940年12月末)に予定されていた「第4回極東ユダヤ人大会」に対して中止命令を出したのであった。



 安江仙弘(やすえ のりひろ)


 陸軍最大の「ユダヤ問題専門家」。 1938年、大連特務機関長に就任すると、
 大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、ユダヤ人たちから絶大な信頼と感謝を受けた。


 安江大佐が、大連特務機関長の職を解かれ、 予備役に編入されると、大連ユダヤ人社会は更迭された安江大佐のために1940年12月14日、大連のユダヤ人クラブで「送別会」を催して彼を慰労した。


 安江大佐は、予備役編入後も、ひきつづき大連に とどまってユダヤ人のために尽くした。


●こうして、安江仙弘大佐と在東京ユダヤ人キンダーマンによって、水面下で進められていたアメリカ政府との直接交渉は、実現を目前にして潰えてしまったのである。


そして日本は、翌年12月8日に真珠湾を攻撃して日米戦争へ突入していったのである……。



※ 大連市の自宅で、日米開戦のニュースをラジオで聞いた安江大佐は、一言「しまった!」と叫んだという。


ーーーー(続きます)----


この時代のことは学校でも教わりません、宗教分野でも扱われてきませんでしたが、統一教会が家庭連合に変わるころ(日本は認可がすぐには下りませんでしたが)から日本人の世界に対する貢献がしだいに明るみになってきました。


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