kimuchiのブログ

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    《礼節と儀式》第三章礼拝と教会生活礼節

日本は一貫して神側の国家だった!(NO,2)


第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3


前回は第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の概略を書いた。
この戦いは陸戦では多くの朝鮮民衆が日本軍を支援して連戦連勝で勝ち進んだが、船の進路を阻まれて補給路を断たれて前線が孤立し、さらに前線の食糧倉庫を焼かれてしまったために一旦漢城に戻って体制を立て直すのだが、そこでも日本軍の食糧倉庫が焼かれてしまい、窮した日本軍は和平交渉に入るのだが、日本側の和平交渉を担当した小西行長と小西如安が早く交渉を終えるために偽りの降伏文書を作成したことが後に発覚し、秀吉が激怒する。秀吉は直ちに第二次朝鮮出兵を命じ、第二次朝鮮出兵と言われる「慶長の役」が始まるのだ。


慶長の役ルート


第一回目の「文禄の役」は明の征伐が目的であったが、「慶長の役」は朝鮮征伐が目的であった。諸将に発せられた慶長2年(1597)2月21日の朱印状(『立花家文書』等)には「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」「これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中心として築城すること」とあり、朝鮮半島の西南部を侵攻し、半島南部に城を築き城主を定めてわが国の領土とするという計画だったようだ。


全羅道への進撃


九州・四国・中国勢を中心に編成された総勢14万人の日本軍に、李氏朝鮮軍は釜山周辺に布陣する。最初の「漆川梁(チルジョンリャン)海戦」は7月16日に水陸から攻撃した日本軍が大勝し、朝鮮水軍の幹部指揮官の元均らを戦死させ、軍船のほとんどを撃沈して壊滅的打撃を与えている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%86%E5%B7%9D%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6



李氏朝鮮水軍勢力をほぼ一掃した日本軍は、8月16日に黄石山城、南原城の二城を陥落させ、さらに全州城に迫るとそこを守っていた明軍は逃走し、8月19日に日本軍は全州城を無血占領している。そしてまたたく間に朝鮮半島の南東部である全羅道、忠清道を占領してしまった。


慶長の役画像


海上では、李舜臣率いる朝鮮水軍の残存部隊が日本水軍を攻撃したが痛打を与えると速やかに退却し、この鳴梁海戦の結果日本軍は全羅道西岸を制圧した。また、拠点を失った朝鮮水軍は、全羅道北端まで後退した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6



ここで日本軍は、当初の計画通り朝鮮半島南部(東は蔚山から西は順天に至る範囲)の恒久領土化を目指して、城郭群の建築に取り掛かる。


蔚山倭城


しかし完成直前の蔚山倭城に12月22日に明・朝鮮連合軍56,900人が襲撃してきた。 加藤清正をはじめ日本軍は、食糧準備の出来ていないままの籠城戦となり苦戦するが、1月3日に毛利秀元等の援軍が到着し、翌日に水陸から明・朝鮮軍を攻撃し敗走させて日本軍が勝利している。


その後城郭群が完成し、九州衆が城の守備のために朝鮮に残留し、四国衆・中国衆と小早川秀秋は予定通り順次帰国して、翌年以降の再派遣に備えたという。


 秀吉は翌慶長4年(1599)に大軍を再派遣して攻撃する計画を発表していたが、8月18日に死去し、五大老や五奉行を中心に、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。


9月に入って明・朝鮮連合軍は総力を結集して三つの倭城(蔚山、泗川、順天)の同時攻撃をしかけるが、第二次蔚山城の戦いでは、加藤清正が明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%9A%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
泗川の戦いでは島津軍7000が明・朝鮮連合軍20万を迎撃し、結果連合軍8万を討ち取り壊滅させた記録がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
また順天を守っていた小西行長も順天城の戦いで勝利している。
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E9%A0%86%E5%A4%A9%E5%80%AD%E5%9F%8E_%E9%A0%86%E5%A4%A9%E5%80%AD%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81



順天倭城の戦い


上の図は順天城の戦いを描いた図だが、これだけ鉄砲で待ち構えられたら、明・朝鮮軍に勝ち目がなかったことが誰でもわかる。
 李氏朝鮮の公式記録『宣祖実録十月十二日条』には「…資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立…」(三路に分かれた明・朝鮮連合軍は溶けるように共に潰え、人心は恐々となり、逃避の準備をした)と書かれている。


10月15日秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令され、命令を受領した小西行長は明軍の陸将劉綎との交渉により無血撤退の約束を取り付けたのだが、引き揚げてくる日本軍を李舜臣率いる朝鮮水軍が明の大将陳璘(ちんりん)率いる水軍と共に海上を閉鎖し、撤退を妨害した。
そこへ島津軍の引き揚げ船団が合流し、露梁津(ろりょうしん)の戦いが起こる。島津軍は苦戦するが、この戦いで朝鮮水軍の大将李舜臣も明水軍の副将鄧子龍(ていしりゅう)は戦死している一方、島津軍の主だった武将で戦死者はいなかった。この戦いでは日本軍が負けたと書く歴史家もいるが、この戦いにおいて日本軍は敗走したのではなく、目的は海戦海域を脱出して釜山に戻ることでありその目的はしっかり果たしているのだ。この戦いで敗れたのは、日本軍の進路妨害に失敗したにもかかわらず追撃もせず、主要な武将を失った明・朝鮮連合軍の方ではないのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6



かくして日本の出征大名達は無事に日本に帰国し、秀吉の計画は成功に至らぬまま秀吉の死によって終結してしまうのだ。


 以上見てきたとおり、日本軍は慶長の役では一戦たりとも敗北していないのだが、何故五大老は日本軍に帰国命令を出したのであろうか。この点については、秀吉が死亡し、家康等有力大名間の権力を巡る対立が顕在化して対外戦争を継続できる状況ではなくなったと考えられている。


明史朝鮮伝


『明史・朝鮮伝』では秀吉の朝鮮出兵をこう総括している。
 「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」(自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。)
http://halto112.blogspot.com/2011/07/3_20.html



このように中国の正史である『明史』で、明と朝鮮には「勝算がなかった」と総括している事実は重たいはずだ。なぜなら正史というものは、自国に都合の良いことは誇大に書き、都合の悪いことはあまり記述しない傾向にあるものであるからだ。事実は、明・朝鮮連合軍が大敗し、たまたま秀吉が死んだことで戦争が終わったということは明も認めている真実なのだ。


お隣の韓国の歴史教科書にはこの秀吉の朝鮮出兵をどう書いているか、興味があったのでちょっと調べてみた。
 「…全国各地で儒生、農民、僧侶などが義兵を組織し、いたるところで倭軍をうち破り、苦しめた。義兵は自発的に立ちあがり、自分の家族と財産、そして村を守る一方、国家を守るために倭軍を迎え撃った。
 義兵は、自分の地元の地理に明るく、地形をうまく利用することができただけではなく、自然条件に合った武器と戦術を活用したために、少ない犠牲で大きな被害を与えた。…」(勝岡寛次『韓国・中国歴史教科書を徹底批判する』[小学館文庫]所収)


随分勇ましい記述であるが、日本軍の圧倒的な鉄砲の威力の前にほとんどの戦いで大敗している史実とはかけ離れた記述になっている。一部の地域で義兵があった記録はあるが、日本軍の大半の地域で朝鮮民衆が日本軍に味方した事実や、当時の朝鮮人口の3割から5割は奴婢身分であり、この時に国王や両班に多くの民衆が反旗を翻した史実を書かなければ嘘を書いているのと同じだ。


この韓国が、日本の歴史教科書に何度も修正要求書を提出している。
http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/new_page_114.htm
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110719-00000023-yonh-kr



「壬辰倭乱」という用語は、韓国では「秀吉の朝鮮出兵」を意味するが、韓国政府は文部省検定済みの扶桑社の教科書の記述について、「出兵」ではなく「侵略」という言葉を使え、この原因は「秀吉の個人的妄想とだけ記述」せよ、「日本軍によりほしいままにされた人的・物的被害の様子を縮小」するな、などとコメントしている。


 要するに「秀吉の朝鮮出兵」は日本軍の侵略行為であり、朝鮮民衆はその被害者でひどい目に遭っているとのイメージを日本人に広げたいのである。いずれ書くことがあると思うが、他の時代についても同様のスタンスだ。韓国にとっては、李氏朝鮮が劣悪な身分制度であったことを隠蔽し、秀吉を侵略者であるとすることが都合が良いと考えているのだと思う。
 韓国の教科書は国定教科書であり、いずれの時代の対日関係史の出来事はほとんどが日本が悪いと決めつけている。こんな教科書で全国民を指導すれば、韓国が「反日国家」となるのは当たり前のことある。
スタンフォード大学のアジア太平洋研究センターの日・中・韓・米・台の高校歴史教科書についての報告で、韓国の歴史教科書については「韓国は日本が自国以外に行った行為には興味はなく、日本が自分たちに行ったことだけに関心がある。」とし、自己中心的にしか歴史を見ていないと指摘したそうだが、これは多くの日本人が納得する話ではないのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C



そもそも一方的な韓国側の主張に、なぜ日本の教科書が配慮する必要があろうか。
 私は「近隣諸国条項」を撤廃すべきだと思うのだが、それができないのであれば、中国や韓国の正史や公式記録等にいくらでも彼らの主張に反論できる根拠があるので、それを使うべきだと思うのだ。
 当時の李氏朝鮮国の身分制度のことはもちろんのこと、朝鮮出兵において韓国人の民衆の多くが日本軍に加担したことを出典や論拠を明確にしたうえで堂々と日本の教科書に書き、先方の教科書記述にも論争をしかけるくらいのことが必要ではないのか。いずれの国にとっても重要なのは、それぞれの時代の様々な出来事についてその時代背景を把握した上で、史実に基づいて真摯に真実を探求することであるはずである。


どこの国でも、他国の圧力で史実に基づかない歴史記述を押しつけられるようなことが続けば、次第に他国に軽んじられるようになり、国民は自国に誇りが持てなくなり、国がバラバラになって衰退していくだけだと思うのだ。
 史実に忠実であるならば、国によって歴史の見方に違いがあっても許容できるが、史実に基づかない歴史を無理に押しつけてくる国に対しては、わが国は史実を示して反論するしかない。政治家は安易に謝罪を繰り返すのではなく、もっと歴史を学んで言うべき事を言って欲しいものである。
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神は急がれる摂理を勝利するためには、ときには方便を使って推し進められることもあります。


もう一度私自身が『原理講論』を整えて歴史の前に出すことです。
この課題は完成されるべきこととして残っています。  ---(中略)---


まだいまだに発表出来ない相当な部分の真理が残っています。私はすでにそのような啓示を受けていますが、未来に公表しようとわざと保留しています。
(真の父母様生涯路程④370ページ、原理の完成本の執筆課題)


原理講論の完成本は、いわゆる分派からでなければ発表されません、なぜなら『今日の家庭連合は、話し合いの機会を与えないばかりか、議論を避けて、公文をだして相対させないように、最後にははく奪・強制退会させられるのがおち、とても残念だ』と思われる方はクリック!をお願いします。
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